夜風

カーンカーンと、遅くまで高層住宅建築の音が響く。
九月の夕暮れは早く、空は刻々と色を変えていく。
作業現場なのだろうか、極端にまぶしい明かりが灯されて
たまに人の声が聞こえてくる。私はあんな高いところで仕事なんか
したくないと思う。


去年から急に車通りの多くなった道を、なんとなく他所様へ来た
ような気分で家路を辿る。歩道は広くなった。街路樹も背が高いのが
植えられた。お前も余所者かい?
後ろからやって来た自転車にジリリジリリと激しくベルを鳴らされた。
脇に避ける。歩道は広くなったけど使いにくいね。


大きな通りから一本脇道を入る。古いながら、我が家がある。
ここの風景だけは変わらない。相変わらず、威勢のいい雑草が
(名前は知らない)コンクリの壁の下から、私の背より高い位置で
ピンクとも赤ともつかない色で花を咲かせている。
お前は今年も元気だね。


家に入ると、家内が「お帰り」と言った。
うんと頷いただけで食卓の椅子に座り、リモコンでテレビのスイッチを
入れる。漫才だか、いつもと同じような番組をやっている。
家内が夕食の用意を始めた。


木造二階建て。狭いながら、立派な我が家だ。
天井を見ると、見慣れたシミが今日もある。いつからあるのか知らない。
家内が茶碗にご飯を盛って食卓に二つ置いた。
それから少々大きめな、汁が沢山入ったカップをトンと真ん中に置いた。
「おでんだよ」
うんと頷いて私は箸でカップの中身をグルグルと回した。
「だいこんとごぼう巻きと玉子があるからね」
家内が言った。
「今日からおでんが始まったんだよ」


家内はもう何年も炊事はしない。飯を炊くだけだ。
惣菜は近くの商店で買って来る。今では惣菜は何でもある。
大きな通りに出れば、目に見える範囲に三つ、商店がある。どれも二十四時間、
深夜まで開いている。子どもたちが帰って来ると、
夜中でもおやつを買いに出て行く。もう暗くて危ないからよせ、と言っても
娘は笑うだけだ。
「コンビニが明るいから大丈夫よ」
コンビニ。コンビニ。


「やっちゃんのところに、男の子が生まれたって」食後のお茶を煎れながら
家内が言った。
「やっちゃんて?」
「ヒロのところの長男の!孫の名前も忘れたの。ボケが始まったね!」
家内は意地悪い魔女のように笑った。お前だってボケてるくせに!


東京は夜の7時。テレビからは相変わらず騒がしい音が流れている。
「さて、寝るか」
家内が煎れてくれたお茶に手を付けずに立ち上がる。
家内はまた笑った。
「もう寝るの。まだ7時なのに」