桜、早すぎる春 -3-

それから善文は詩織のほうをずっと見ながら歩いてきた。
詩織は動けなくなってしまった。誰かに「すみません」と
声をかけられて、詩織は自動販売機の前を譲った。


「ひさしぶりですね」
最初に声をかけたのは善文だった。
「地デジシンポジウム、いらしてたんですか」
「はい」
詩織は何を答えたら良いのか分からずに、ただもじもじ
立っていた。
「そっか」
善文は両手を皮パンのポケットに突っ込むと、ふうっと
廊下をロビーの方へと視線を投げて
「このあと、パネルディスカッションですよね?見て行
くんですか?」
と尋ねて、それから詩織の顔を覗くように視線を下げた。


背の高い善文と、正面からこうして話しをするのは初め
てかもしれない。善文はあの秋の日より大きく見える。
ここNHKホールは善文の庭先のようなもの。相変わら
ずたおやかな仕草に、詩織は善文の貴族の気品を思い出
した。さすが、NHK様さま。


「聞いていくつもりです。田辺さんは?」
詩織は少しだけ笑顔を作って聞いた。善文はまたロビー
の方をふうっと見て、眉間にちょっと皺を寄せて
「どうしようかな、と思っているところです。はっきり
言うと僕、デジタル専門だから、今さら聞いても面白く
ないんですよ」
詩織は驚いた。デジタル専門?善文はあのコンペの時、
既にデジタル映像を作っていたのだろうか?詩織は完全
に負けたような気分になった。


「まもなく次のプログラムが始まります。ロビーにいる
方々は席にお戻りください」
アナウンスが流れた。喫煙者たちが一斉に動き始めた。
詩織はカップ珈琲を買えなかった。
「それじゃ」
善文はそう言うと、廊下を来た方へと戻って行った。


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは関係ありません