桜、早すぎる春 -5-

「こっちです」
善文はバス通りまで出ると渋谷C.C.Lemonホール
(旧渋谷公会堂)の角を右に曲った。なだらかな坂を
下り、NHK放送センターの西門へ通じる道にぶつかっ
た。東の門は見学者がほとんどで、この西門がNHK
各社員の通用口であり、出演者の入口でもある。
事実上はこちらが正門と言って良かった。
善文はこの通りを渡って、さらに西へと続く細い道に
入って行った。自動車一台、通れない道である。


不思議なことに、この細い道沿いに店が幾つもあった。
なるほど、NHKの人しか知り得ないだろう、と思う
ような裏道だ。


細い道に入ると、善文は詩織の横に並んで、詩織の歩幅
で歩いた。ジャケットを両手で前に抱えている。
「最後のディスカッション、どうでした?」
感想を求めるというより、内容を尋ねているようだった。
「うーん。デジタル放送がテレビか携帯か、あとパソコン
も。どの媒体にでも通用するには?なんて難しいこと
話してましたよ。携帯でテレビ、見るんでしょうかね?」
詩織は本気で疑問に思ったことを口にした。
善文は笑った。ほっほっほ。ああ、そう、例の公家っぽい
雰囲気で。


佐倉詩織が田辺善文と会ったのは一年半前の秋だった。
航空会社が空港で放映する映像の制作コンペで、偶然に
も同じ「白川郷」をテーマにして争った。
その取材の際、詩織の日丸テレビのカメラマンに不手際
があり、ひょんなことからNHK-EPのディレクターである
田辺善文と2日間、取材を同行することになったのだ。


詩織は善文を、自分より2歳くらい年下だと思っている。
その彼がたった一人で番組企画をしていることに感心
していたし、またどこかで劣等感も持っていた。
一年半前、詩織が善文の企画書とも言える絵コンテを
見てしまったことから誤解が生じ、二人は「さようなら」も
言わないまま別れた。


それ以来の再会だった。善文はコンペに圧勝し、見事な
番組を成田空港国際線ロビーで披露した。詩織も偶然、
その番組を見た。画面の美しさと番組が訴えるテーマの
深さに詩織は感嘆したのを覚えている。そしてたぶん、
詩織が善文の企画を盗もうとして絵コンテを見たのでは
ないことを、善文は気付いてくれたのだと思った。


そうだとしても…善文とどんな会話をしたら良いのか、
詩織は少し戸惑っていた。