桜、早すぎる春 -8-

え?
詩織は驚いた。あのときの誤解を謝ってもらおうとは
今さら全然思っていない。それよりも、詩織が偶然にで
も善文の番組を成田空港で見たことを告白しなければ
ならないのか、そのことで頭が混乱した。


善文は視線をすっとビールグラスに移した。
「やっぱり、怒ってますよね」
詩織はますます何と言っていいのか分からなかったが
一生懸命、言葉を選んだ。
「いいえ、あの、全然、謝る必要ないです」
善文が、申し訳なさそうな目を詩織に戻す。
「絵コンテを見たのは事実ですから。あ、でもあのコンテ
を横取りしたような番組企画はしてませんよ。本当です」
詩織はなんだかんだいって、自分があの誤解を気にして
いた自分に気付いた。
「企画を盗もうと思ってコンテ見たわけじゃないですから」
今度は詩織が善文の視線を外し、泡が消えていくビール
グラスを見た。
泡が消えていく。早く飲まないと美味しくない。なのに、
なぜ私は今、こんな不愉快な話をしているのだろう、
詩織はそんなふうに思った。


「あのあと、分かったんです」
善文の声は小さくて、独り言のようだった。
五箇山で取材が終わって、コンテを整理したときに」
詩織は黙って聞いていた。
「コンテの順番がバラバラになってました。最後のページ
には土が着いていて…僕は貴女にとんでもないヌレギヌ
を着せた上に、失礼なことを言ったんだと」
確かに詩織はあのときとても動揺した。悲しかったような
気もする。しかし、善文の番組を見たときに、全ては
終わって、許す気になっていたのだ。


「ずっと、謝りたいと思っていました」
善文は言葉をひとつずつ、丁寧に最後まで発音した。
詩織は頷いた。
「謝ってもらう必要はありません。誤解が解けていれば
それでいいんです。それに、もう二度と会うことはない
と思ってましたから」
そう言うと、詩織は自分で自分が可笑しくなって、善文
の方を向いて笑った。
善文は安堵したように目を細めた。
「悔しかったですよ、同じ日に取材に行ったのに、完敗
なんだもの。さすがNHK−EPだと思いました。コンペ
圧勝、おめでとうございます」
詩織は本当に嬉しい気持ちになって、グラスを善文の方
へ差し出した。善文はもっと目を細め、グラスを持った。
カチン。
この乾杯は、本当に二人が理解し合えた証拠だろう。


善文はビールをいっきに明けた。そして嬉しそうに笑い
ながら言った。
「僕は、絶対にもう一度会えると思ってました」


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは関係ありません