桜、早すぎる春 -9-

ドキっ。詩織は言葉の意味をとらえ損ねた。なんだろう。
どういう意味かしら。聞いてみたい。でも、なんだか怖い。
詩織は聞こえない振り、関係ないという振りをしたまま
グラスを傾けていた。
「ふふっ」
善文はそんな詩織を見ながら頬杖を突いて、組んだ足を
ブラブラさせた。


「こ・・な・・ばになり・・」
二人のあいだに割って入って、店員がひとつ目の惣菜を
置いた。小声で早口だったので、詩織には何だか聞きと
れなかった。
「ビール、おかわり!」
善文はビールグラスを店員に渡した。詩織はそんなこと
にはそっちのけで、初めてみるその姿に皿に顔を近づけて
聞いた。
「なんですか、この伊達巻がとろけたようなものは」
善文は椅子にのけぞり胃に手を当てて笑った。
「ほっほっほ!」
その声も表情も楽しそうで、満足そうだ。
「なんですか、ねえ、そんなに可笑しいですか?」
詩織もついつられて笑う。
「それ、湯葉です。なまゆば」
「え?湯葉湯葉をなまで食べるんですか?
「けっこうイケますよ」


善文は真顔に戻って自分の割り箸を割り、机に積まれた
取り皿に湯葉をふたつ取り分けると詩織に渡した。
「ありがとう」
詩織は初めて見る食べ物の方に気を取られて、善文の
左手の薬指に気を回すことができなかった。
なま湯葉なるものを見詰めながら箸を割り、また皿に顔
を近づけた。
箸で湯葉の真ん中を押す。切れない。転がしてみた。
しかし切れない。
「一口でいくしかないですよ」
頬杖を突いたまま善文が言った。
「そうですか?では」
詩織はぐにゃぐにゃで掴みどろこのない湯葉を箸で無理
やりに畳みこんで、左手を添えてぱっと口に放り込んだ。
「ん?」
「ん?」
「んー、淡白ですねえ。味がしない…」
それを聞いて善文はまた笑った。
「味がしないことないでしょう。この繊細な味が分から
ないんですか?」
「分からないことないけど、あ、このとろっとしたところが
美味しいですね、蜜ですか?」
詩織は皿に残ったもうひとつに箸をつけようとした。


善文に二杯目のビールが届いた。善文は受け取るとすぐ
にビールに口をつけ、美味しそうに微笑んだあと
「ほんと、佐倉さんて表現豊かで面白いですね」
「は?」
箸をつけかけた手を止め、善文にさっと視線を向ける。
「伊達巻がとろけたとか。白川郷に着いたとき、何て言
ったか覚えてますか?まるで箱庭に入っちゃったみたい
って言ったんですよ。面白いこと言う人だなーっと、ずっと
思ってました。佐倉さんと居ると、楽しいだろうな」