桜、早すぎる春 -11-

「でもそうですよね。NHKが環境問題を取り上げるのは
ある意味、義務だと思いますよ」
詩織は残りのビールを空にしながら言った。
「義務?」
「そうです、義務。NHKは災害時とか、絶対に特番で
状況報告をする義務がありますよね。それと同じだと
思うんですよ」


「うーん」
善文はまた足をぶらぶらさせた。
「それはつまり、数字(視聴率)は関係ない、って意味
ですか?」
「そうです!もちろん!」
詩織は空のグラスをまるでマイクでも向けるかのように
善文の前に突き出して言った。
「私たち民放は数字取らなきゃ番組作れないんです。でも
NHKなら良質な情報のためにお金かけられるでしょう?」
善文は足をぶらぶらさせながら苦笑した。
NHKだって同じですよ。数字で予算が決まるんだから」
「そうなんですか?」
「数字が取れたディレクターは次の番組の予算も多く
取れるんです。それは同じじゃないですか?」
「民放は、スポンサーがつかなきゃ予算は取れません」
詩織はぷいっと顔をそむけるとグラスをテーブルに置いた。


「あ、佐倉さん、グラスが空いてますね。ビールでいい
ですか?」
善文はすっと右手を上げた。店員がさっと現れた。
「ビール、もうひとつ」
形の良い善文の指が、詩織の空けたグラスをつかみ、
店員の手に渡された。このとき、詩織は初めて善文の
左手の薬指に気がついた。善文のグラスを持つ手を追う
ように、顔が下から上へと移動する。
「ビールじゃないほうが良かったですか?」
善文がそれに気付いて聞いた。詩織は自分の頭が無意識に
に動いていたことにはっとした。
「いいえ、ビールでいいです」


しかしその返事も上の空だった。善文の左手の薬指。
そこにはシルバーの大きな指輪があった。白川郷で会った
ときにはしていなかったはずだ。一年半のあいだに、
結婚したのだろうか?しかしそれを否定したくなる要素
があった。それは指輪がドクロの形であるということ。
しかもかなり大きいということ。結婚指輪とは思えない。
でも左手の薬指である。彼女からのプレゼントだろう。
でなければ、わざわざ左手の薬指にするはずがない。


詩織はなぜだか急に白けた気分になった。もちろん、
善文に恋人が居ようと居まいと関係ないはずである。
なのに、とても白けた。会話がひどくつまらないものに
感じてきた。詩織は右の足を左足に組んで、善文がして
いるようにぶらぶらと揺すってみた。普段は履かない
ゆるめのハイヒールがコロンと落ちた。
「あ」
詩織は慌てて履き直すと足を組むのはやめることにした。
善文はそんな詩織の行動を、テーブルに頬杖をついて
黙って見ていた。


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは関係ありません