桜、早すぎる春 -13-

「ないわけじゃありません」
善文は相変わらず足をぶらぶらさせながら言った。
「でも僕、デジタル制作担当なんです。何かひとつを
自分のテーマにする、ってことがないんですよ」
その目は少し寂しそうだった。
「デジタル制作、って、つまりハイビジョンですよね?」
詩織が聞くと、善文は頭をがっくりと前に落とし、首を
横に振った。


「違うんですよ。ハイビジョンだけじゃない、ってこと」
善文は自分が作ってきた番組のタイトルを言った。その
中にはテレビ番組以外のもの、例えば夏に空港で流して
いた「守り継ぐ日本の美」のような環境映像もそうだ。
教育チャンネルのCD-ROM構成をすることもあるそうだ。


「環境問題については真剣に取り組んでます。NHK
全体で。でも僕が何かできるかと言ったら、何もできない」
「そうでしょうか?」
「佐倉さんは何ができますか?」
「私は…」
詩織はテーブルに置いてある割り箸を手にした。
「コンビニに行ったらエコバックに入れて持ち帰ります。
コンビニ袋は断るようにしています。始めたばかりです
けど。そう意識することが大切なんだと、教わりました」
「誰に?」
「地球に。温かくなっていく地球にです」
善文は足をぶらぶらさせるのを止めた。詩織は続けた。
「でもね、マイ箸は持っていないんです。箸は廃材から
作っていると言うじゃないですか?もしそうだとしたら、
割り箸は使うほうがエコなんです。伐採された木のため
に、全部を利用するほうがいいと思うんです」


「それと、テレビの義務とは関係なくないですか?」
善文の声は小さく低く響いた。
「直接的には。今言ったのは、私が一人の地球人として
できることです。これは誰にでもできることです」
詩織は持っていた箸を置いた。
「でも私には違う力、というか…違う機会が与えられて
います」
「なんですか?」
「温かくなっていく地球の姿を、テレビを通して世界に
知らせることです」


善文はテーブルに頬杖をついて、詩織を見た。善文の目は
詩織の目の奥に隠してある物でも探すかのように、あっち
こっちに動いている。
「それで、今、どんな番組を作ろうとしているんですか?」
詩織は笑った。
「田辺さん、私たち同僚じゃないんですよ。言えるわけ
ないじゃないですか」
詩織が笑ったのを見て、善文も笑った。
「そうでしたね。僕、つい夢中になっちゃって忘れてました
よ。今日話したことは、お互いオフレコですね」
「もちろんです」


「あ、だけど」
詩織はパンと手を叩いた。
「なんですか?」
「田辺さんもエコバックにするといいですよ。それは今日
からできるエコですから」
善文はテーブルから離れると腕組みをして笑った。
「エコバック?僕は前からコンビニ袋は使いませんよ。
買ったものは全部手で持って歩きますから」


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは関係ありません