桜、早すぎる春 -14-

詩織があんぐりと口を開けて驚いていると、善文は笑った。
公家のように「ふふふっ」と。詩織も笑った。この人、
前世は絶対に公家だよ。


その時、善文の携帯がピリリリっと鳴った。
「おっと」
善文はパンツのポケットに入れてあった携帯を取り出す。
「はい」
白川郷で会ったときに持っていた携帯とは違っていた。
「ぃやっ」
ん?詩織は聞き耳を立てるつもりはなかったが、つい
善文の方を見てしまった。電話の相手と英語で話して
いるようだ。善文はあっちを向いたり、中腰になったり
せわしなく動いた。電波の調子が悪いのだろう。ついに
「ちょっと、すみません」
と店を出て行ってしまった。


詩織は足を組んで、ぶらぶらさせてみた。今度はヒールが
落ちないように、つま先を上に向けたまま、ぶらぶら。
また目の前の料理の洋書が気になった。どんなことが
書いてあるのか気になるのだ。自分で作ってみたくて
広げてみたいのではない。


「すみません」
善文はすぐに戻ってきて、椅子に座るなり言った。
「僕の同期が今から来るそうです。断ったんだけど
どうしても、と。佐倉さん、いいですか?」
予想外だったが詩織はOKした。
「本局でCG作ってるやつです。本当は今日、チェック
するはずだったのを僕がすっぽかしたので」
善文は眉間に皺を作ってすまなそうな顔をしている。
「行かなくていいんですか?」
詩織も心配顔を作ってみる。そんなのは知ったこっちゃ
ないわ、と心で思いながらも。
「別にいいんです。本当はOKが出てるのに、もっと
懲りたくて勝手に作ってるだけですから」
「そういう職人気質の人、たまに居ますね」
詩織は局のメンバーの顔を幾つか思い浮かべた。


「聞いてもいいですか?」
善文が改まって言った。
「どうして、環境問題を取り上げようと思ったんですか?」
「それは。企業秘密にも触れるので」
「ああ、そうなんですか?」
「ええ。直結です」
詩織はビールを飲んで笑った。笑ったが、すぐに笑顔で
いられない心境になった。
「シロクマが」
「え?」
「シロクマが、北極で死んでいるんです」
「シロクマ?」
「ええ、シロクマ。ホッキョクグマ。北極の氷が溶けて、
彼らは海に沈んで死んでいるんです」
そのあと、善文は何も聞かなかった。すっと通った鼻筋の
横顔を詩織に向けて、足を組んだ。


この話題は重すぎだな、と詩織は思った。酒の肴にして
いい問題ではない。不謹慎な気さえする。
ふう、っとため息をひとつついて、詩織は善文を見た。
「私も聞いていいですか?」
「なんでしょう?」
「田辺さんのその、左手の薬指。どういう意味ですか?」
「えっ?」
善文はひどく驚いたような声を上げた。


この物語はフィクションです。実在する人物・組織・団体とは関係ありません