桜、早すぎる春 -18-

詩織がその研究室を訪ねたのは三回目だった。
東都大学獣医学部大学院、野生動物科山口准教授室。
大学や動物を飼育している教室は東京郊外に校舎を持って
いたが、山口准教授室は水道橋に近い東京の真ん中の
ビルの12階にあった。
ビル全体が清潔で明るく、動物が走り回っている獣医大
のイメージとはかけ離れていた。


詩織はエレベーターを12階で降りて、まっすぐ伸びる
廊下を突き当たりまで歩き、今度は東側がガラス張りに
なった廊下を左に曲って二つ目のドアをノックした。
ドアが内側へすっと開いた。
「すみません、せっかく訪ねていただいたのに」
部屋の中に招き入れたのは短髪で、スポーツマン風の
精悍な青年だった。山口准教授の助手の結城大介。いつも
のように、スリムなカラーパンツにブランドのシャツ。
こんな大介も大学生の頃は毎日動物の臭いのする部屋で
土まみれになっていたというから驚きだ。


「これが、山口から預かっている資料です」
「ありがとうございます」
詩織は封筒を受け取ると、その場で中の書類を出した。
見た途端、詩織は嫌悪とも怒りともとれる感情を抱いた。
二人は部屋の中で、その書類に写っている写真を見ながら
しばらく黙っていた。詩織はその書類をぎゅっと自分の
お腹に押し付けて天井を仰いだ。
「これが、現実ですか?」
「ええ」
大介は静かに答えた。
「これで。こんな状態で、シロクマはまだ生きているん
ですか?」
「…ええ」
ためらいがちに大介が答えた。詩織は涙が流れそうに
なるのを必死でこらえた。


大介は
「だから私たちが闘っているんです。佐倉さんも、そう
でしょう?」
と言って詩織から離れた。
「お茶をいれましょう」
大介は山口教官室の戸を開けると、廊下へ出た。
お茶を飲む。野生動物研究室の中でも、絶滅危惧種
扱う資料室へと移動するのだ。前にも二度、詩織は
資料室で大介と紅茶を飲んだ。
資料室といっても実際は学生の集まる図書室のような
場所で、そこには大介以外にも絶滅危惧種に指定されて
いる動物を研究する大学院生がいつも居る。
「あ。佐倉さん、いらっしゃい」
大学院生の高橋は嬉しそうに声をかけた。大介は部屋の
隅に置いてあるお湯の沸かせるポットへ近付き、詩織と
自分の分の紅茶を淹れた。

この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは関係ありません