桜、早すぎる春 -20-

三人の学生たちは資料室の中央にある大きな机の上に
北極圏の地図を広げていた。彩は机の上に身を乗り出して
食い入るように地図を見ている。
詩織と大介は学生たちから少し離れた場所に座って、
紅茶を飲み始めた。京が
「あれ?結城さん。俺達の分はないんですか?」
と聞いたが、結城は静かに笑うだけだった。


「でも実際、白夜ってのは厳しいわよね」
彩が腕ぐみする。
「シロクマの繁殖期なんです。実際、シロクマも寒い中は
ヤなんじゃないですか?」
雅が笑いながら返答した。
「山口先生はいつ、日本を発たれたんですか?」
詩織は大介に聞いた。
「おとといです。今回はカナダの研究チームと合流する予定
なんですが、まだ着いてないんじゃないかな」
大介は袖の下の大きな腕時計をのぞかせて答えた。


「突然でしたね、フィールドワークなんて」
詩織は両手でカップを包んで呟くように言った。
「運良く、カナダ側に近い場所でつがいが見付かったん
です。僕らも氷の上にベースキャンプを置くより、大陸に
近いところから観察できればありがたいですしね」
「普段は氷の上ですか?」
「最近では夏になるとシロクマの方から寄ってきますよ。
氷がなくなりますからね」
大介は苦笑していた。


京がまた大介に言った。
「結城さん、俺らの紅茶は?」
彩が乗り出していた上半身を起こし、京を見下ろすように
言った。
「あんた、もうすぐ学部の彼女とデートの時間でしょ!」
「え?」
京が資料室の壁掛け時計に目をやると、4時を過ぎていた。
「うわ、やべ。今日は俺があっちに行く番だった」
慌ててジャケットと鞄を持つと、ドアに駆け寄り、
「失礼します。佐倉さん、今度一緒にお茶しましょうね」
と言って出て行った。
「ったく!」
彩は相変わらず椅子の上に膝をついて立っている。
大介は「あはは」と声に出して笑っていた。
詩織もなんだか可笑しくなってふふふと笑った。


一年生の雅が
「僕たちもお茶にしませんか?淹れてあげますよ、先輩」
と言うと、立って紅茶を淹れ始めた。
「ありがとう」
彩も椅子から降りて、地図はそのままに詩織たちのそばに
椅子を引寄せた。
「佐倉さん、マスコミに入社するのって大変ですよね?」
彩が突然に聞いた。
「競争率は高いけど、どうして?マスコミに入りたいの?」
彩は大きく首を振って答えた。
「違います。私はパンダに一生を捧げるんですから。
それより、マスコミの人が、この資料室に通っているのが
なんか不思議で」
雅が紅茶を二つ持って、結城の隣に座った。ひとつは手を
伸ばして彩に渡した。
彩はもう一度「ありがとう」と言った。