桜、早すぎる春 -22-

「ふうん、共食いですか」
善文は綺麗な指で顎をさすりながら呟いた。
「それが食糧難のためにされるとしたら、悲劇ですね」
「ただの食糧難じゃないんです。本来の餌のセイウチとか
アザラシとか、そういう動物は近くに沢山居るんです」
「動けなくなったから、近くにいる子供を食べちゃうわけ
ですか」
「田辺さん…もうちょっと言葉を選んでください」
詩織はうつむいた。


約束したように、善文から携帯メールがあった。時間が
あったら食事をしないかという誘いだった。詩織はBS局
のある原宿に居たから、またNHK西側にある、前と同じ
店で落ち合うことになった。詩織は快く承諾したが、
歩いてみるとなかなか遠かった。よりによってNHK放送
センターが大きすぎる。中を通行できるパスでもあれば
良いのに。そう思いながら、自分がいつまでも日丸
テレビの社員証を首からさげていることに気付いて、まだ
人通りの多い竹下通りで慌てて社員証を鞄に詰めた。


店に着いたとき、善文は既に一人で飲み始めていた。
ウイスキーをロックでやっていたらしい。
「だって、ビール飲みながら待ってたらお腹いっぱいに
なっちゃうでしょ?」
善文が子供のような笑顔で詩織を迎えたのは30分前。
そんな善文の優しさに、詩織はちょっと心が揺れた。
この人はとても大きな人なんだと思った。白川郷
映像のように、いつも「ひと」を見ているんだな、この人は。


善文が座っていた席は、前にカップルがひとつのソファーに
寄り添って座っていた、たおたおとしたカーテンのある
ムーディーな場所だった。ライトもいい感じに暗くて、
メニューの字がぎりぎり読めるくらいの明るさ。
ライトよりも、机の上で揺れてるローソクの炎の方が
明るいくらいだ。
詩織は最初、善文が来ているのに気付かなかった。店は
既に満席で、にぎやかだった。複雑に構成された席の間を、
奥へ奥へと進んでいった。すると「うしろだよ」という
携帯メールが着信して、振り返るとカーテンを半分開けて
手を振っている善文が見えた。


「すみません、もうこの席しか空いてなくて」
申し訳なさそうに善文が言った。
「いやならほら、真ん中にクッションを置けばいいし」
一生懸命言い訳している善文が可愛くて、詩織はクスっ
と笑った。
「大丈夫ですよ、襲ったりしませんから」
詩織はそういうと、ソファーのもう半分に腰を下ろした。
下ろしてから気が付いたのだが、ここにはこのソファーが
ひとつあるだけだ。てっきりテーブルごしに、もうひとつ
椅子があるのだと思っていた。つまりカップル席か。
善文が苦笑いするわけだ。


詩織は善文とのあいだに置かれたクッションに肘を乗せ
「ああ、これ、楽ですよ」
と笑った。
「どれ」
善文も腕を乗せる。
「ほんとですね。じゃ、今日はくつろぎながら」
善文の公家顔がローソクの灯りに揺れた。なんだか、
すぐに愛の和歌でも詠みそうな雰囲気だった。


しかし、二人のビールとおからコロッケが出されてすぐ、
シロクマの話が始まった。善文が切り出したのだ。
「佐倉さんがそんなに突然に、地球温暖化問題に夢中に
なったのは、なぜですか?」

この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは関係ありません