甥の見た津波被災地

関西・淡路大震災の時、弟Aはバイクで、震災後5日の
被災地へ行った。
自分の持っているキャンピング道具、特にガスカセットを
提供するために。


崩壊した家々。バイクですら侵入困難な場所で、弟Aは
ただただ涙するだけだったと言った。


そんな弟Aが、津波被災地に単独で向かったのは震災から約一ヶ月後。
ようやく東北道が走れるようになったばかり。
自分に何ができるか分からないけど、行かずにはいられなかったらしい。


あるところを境に、景色が一変したという。
それまでは日本のどこにでもある風景だったのに、突然に、
まるで何もなくなってしまった、と。


辺りはヘドロと磯の複雑な異臭で満ち、ありえない場所に
車や道路、船が散乱していた、と。
なす術もなく、避難所に立ち寄ることもはばかられ、そのまま
高台に登ったらしい。
ところどころに家屋らしいものが残るほかは、茶色一色の平野。


そんな高台にも桜が咲き始め、被災した人々が花見をしていたと言う。
「せめて桜を見て、心を癒して欲しい」
そう願って帰ってきたのだと言った。


津波被災地の惨状は、私も弟Bも、写真でみせてもらった。
テレビで見て知ってはいたが、この光景を弟Aは実際に見て来たのだ
と思うと、改めて津波の脅威を識る。


弟Bは、ネットで自分にできるボランティアを探した。
町の半分が壊れてしまった都市で、商店街再興のプロジェクトが立ち上がった。
インテリアデザインも手掛ける弟Bは、東京でデザインを、
そして現地では瓦礫の撤去から床の張り替えまで、技のもてる限りを
尽くしてきたのだと言う。


この夏、プロジェクトは第一段階を終了した。


弟Aはもちろん、弟Bが津波被災地に入ることは、家族はあまり
歓迎しなかった。
余震が続いていた。
シュラフ持参とはいえ、被災した人々の暮らしも安定しないところへ
単独で行って迷惑をかけるのではないか、と思った。


口にはしていなかったが、義妹Bが安全を気にしたとしても不思議はない。


そんな家族に、復興した商店街を見せようと、弟Bは義妹と甥(3歳)を
連れて、新幹線で東北の地へ。


最初、甥の芽威には、地震の被災地であることを伝えていなかった。

311当時、芽威は2歳にもなっていなかった。
地震のことは記憶にないだろうと思っていたらしい。


しかし芽威は私にはよく地震の話をした。
地震って、こわいよね」
「ぐらぐら、ってするよね」


地震のとき、芽威は両親とは離れた場所に居た。
周囲の大人の異様な雰囲気。そして日没後の3度の計画停電
小さいなりに非日常を感じていたのだと思う。


「今度、地震のあったところに行くんだよね」
そう話しかけた私に、芽威はとても驚いた顔をした。
弟Bは気まずそうに
「そういうの、芽威には全然言ってないし、被災地には
 行かない予定なんだけど…」
「あ。 ね、ねえ、芽威、新幹線ではどこまで行くの?」


結局、弟Bは、義妹と芽威を連れて、津波被災地に行ったらしい。
弟Aが登った、その高台から、家族で景色を見たらしい。


弟Bの写真は、一年経っても弟Aの写真と大差なく見えた。
ただ、瓦礫の山は確実に大きくなっていた。


津波被災地では、芽威は
「おうちがさかさま!」 「道路がぼこぼこ!」と
叫んでいたらしく、津波を理解したようには思えない、と
弟Bは言っていた。


しかし、家に帰ってから2日目の朝早く、芽威は
よりによって自分の大切にしているおもちゃを、床にひっくり返して

地震でこんなに壊れちゃった。
人もお水でね、みんな流れちゃった。車もみんなひっくり返っちゃった。
前はあんなに綺麗だったのに、こんなに壊れちゃった。かわいそうだね。
どれでもバラバラに壊れちゃった。ね、こんなになっちゃった。見てごらん!



芽威の茫然とおもちゃを見る表情には、たんに見て来た光景を
再現してみた、なんて冗談は微塵もない。
あの怖い地震を、また違う角度から追体験し、傷付いたのだろう。


かわいそうなこと教えちゃったな…叔母として責任を感じるけど。
これが現実なのだ。
その現実をきちんと受け止められた芽威に、これからは自分が
何をするのか、考えられたら良いな、と思う。