桜、早すぎる春 -27-

ビールが前に置かれると善文はそれをごくごくと飲んだ。
詩織も真似してごくごくと飲んだ。やはり喉ごしが美味しい
のは一杯目だけだな、と詩織は思う。
善文はグラスを置くと、その長い足を組んだ。


「佐倉さん、彼氏います?」
「想像に任せます」
これは詩織がいつも決めている回答だ。居ても居なくても
そう答えておくのが都合がいい。局の先輩で馬鹿正直に
「居ません」と答えたら、得意先に見合いを持ち込まれ、
断るに断れず苦労したという話を聞いている。
「んー。じゃあ居ないことにします」
善文は綺麗な指で顎を擦りながら答えた。詩織はふっと
善文の左手を見た。そう、薬指。ガイコツの大きな指輪は
今日も善文の薬指にはまっていた。
「田辺さんは、そのガイコツ、あの帰国子女の彼女に
もらったんですか?」
聞くだけ聞いて、詩織は自分は勝手にビールを飲んだ。
「彼女?」
善文は笑った。しかしその目は迷惑そうに細められている。
「三井は同期ですよ。付き合ってません。それにこれ、
たぶんアメリカに帰ったときに適当に買った土産ですよ。
一応、お守りだとは言ってましたけどね」
善文は指輪をグルグルと回して見せた。


「じゃあ、田辺さんも付き合ってる人、居ないんですか?」
詩織は素になって聞いた。すると善文がふふっと笑った。
「今、本当のこと言いましたね。佐倉さん、本当に今、
付き合ってる人いないんでしょう?」
あ、しまった。しかし詩織はなるべくそれを表情に出さない
ようにビールを一口飲んだ。
「想像に任せます。でも田辺さんに居ないことは確定」
善文はふふふっと笑った。公家に戻っている。
「佐倉さん、なんなら僕、立候補しますよ」
詩織はあやうくビールを気管に流し込むところだった。
「ふふふ。じゃあ選挙運動、楽しみにしてます」
邪険にしたつもりだったが、内心、悪い気はしなかった。


それから30分ほどして、二人は空のビールグラスを前に
していた。
「佐倉さん、これからどうやって帰ります?」
「渋谷から山手線で新宿へ出ます」
「それなら小田急線の代々木上原へ出ましょう」
詩織は首を傾げた。
「ここからなら渋谷に出るのも代々木上原に行くのも
同じくらいです。渋谷は人が多いから」
「でも道、わかりません」
「駅まで送りますよ」
「田辺さんはどうやって帰るんですか?」
「僕?」
善文は笑った。
「僕、松涛なんです。ここから歩いてすぐ」
「え?こんな所に住んでるんですか?」
見えるわけもないのに、詩織は左右をきょろきょろした。
善文がふふっと笑う。


店を出た。二人はそのままなだらかな坂を上った。
道は細かったが、人通りは多かった。
「ほら」
善文が白い建物を指差した。道路の右側は大きなビルが
多い。そのうちでも特に大きかった。
「ここが僕の会社です」
詩織はぐるっと上を仰いだ。大きいが放送センターとは
雲泥の差だ。
二人は会社の前を黙って過ぎた。しばらく歩くと、また
善文が指を差す。今度は左の細い路地だ。
「こっち行けば、僕の家です」
「いいところ、住んでますね」
詩織は羨望交じりの溜息をついた。


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは関係ありません