ドラマ「ドリトル」と尊厳死

日曜夜のドラマ「ドリトル」。
原作を読んでいないのでそちらはどうか分からないけど、
このドラマでは毎週のように、ペットの安楽死問題が
出てくる。
安楽死させるかどうかで、獣医師が二分しているかのようにも
見える。


テーマとしては「ペットは家族だ」ということ(たぶん)。
もし動物じゃなくて人間だったら
「手術が難しいというだけで安楽死をすすめるか?」
「保険がきかない手術100万円を『高い』と拒むか?」


動物は家族で喩えるなら、言葉を喋れない自立できない子供。
子供に対する親の責任、ペットに対する飼い主の責任が
問われている。


主人公のドリトルは、手術の前に動物に話しかける
「がんばれよ」と。


対して、安楽死を進める医師が飼い主にかける言葉は
「手術の結果、厳しいリハビリが待っている。飼い主には
 辛抱強い介護が必要。ペットは今よりもさらに長い時間、
 苦しみを味わう。その覚悟があるのか?」


ドリトルが主役な分、こちらの言い分はいささか悪役だが、
残念なことに、これもまた真なり、だと思う。


日本では未だ(というかこれからも?)認められていないが、
人間でも尊厳死問題はずっと問われ続けている。
主に脳死状態が論点であって、ドラマ「ドリトル」のように
困難な手術、というだけで尊厳死なんて話にはならない。
現に何千万もかけて渡米までする家族も少なくないわけだ。


しかし。介護疲れによる無理心中、殺害はどうだろうか…
私は今「殺害」と書いたが、尊厳死が認められれば
「殺害」にはならない。
「親の(首を)切るから『親切』」
長く苦しんでいる家族に「楽にして欲しい」と懇願されたら、
手にかけてしまう人が居るのも現実なのだ。彼らの苦悩を私たちは
理解しなければならないと思う。


ところで、それが本人だった場合…
我ながら恐ろしいことまで考えてしまうものだなぁ(汗
もし苦しむ患者を医師が安楽死させても良い、ということになったら
どこまで患者は自分の生と戦うことができるのだろう。
もちろん、必死に「生きたい」患者がほとんだと思いたい。
しかし。
癌の告知が難しいとされてきたのはなぜか?
苦しみの果てに限りなく死の可能性が高いと分かったとき、
自らその少ない残りの人生を、さらに短くすることを選ぶ人を
恐れているからではないか?


簡単な問題ではないのだ。
「ドリトル」を見ながら、ここまで深読みする私が
どうかしてるんだろうか。