桜、早すぎる春 -6-

少し歩くと善文は通りの右側にある店を指差した。
「あそこです」
店は地下にあるようだが、メニューの看板が外に立って
いた。洋風居酒屋という感じだろうか。
善文が先に階段を降り、店のドアを開けた。手を胸の
高さで折り、詩織に先に店に入るように促した。


店は想像していたよりもずっと暗かった。ソファーの席、
壁に向かったカウンターのような席、黒のモダンなテーブル
と椅子の席。同じ造りの席はひとつもなく、それぞれに
趣向が凝らされていて、電灯も様々、明るさもそれぞれ
違っていた。


「あそこでいいですか?」
善文が指差した席は木で作られた椅子が二つ横に並んだ、
古い図書館を連想させる明るい席だった。
「はい」
店の奥には天井からたおたおとした半透明のカーテンが
垂れたムーディーな席もあり、広い空間なのに一組の
カップルが寄り添うようにソファーに座っているのが
見えた。


善文は抱えていたジャケットを椅子の背にかけた。詩織
もベージュのジャケットを脱ぐと、善文のしたように
椅子の背にかけた。詩織が腰をかけようと椅子を引いた
ときには、善文は既に椅子に半分腰を下ろし、メニュー
を広げていた。
「僕はビールにしますが、佐倉さん、どうします?」
「私もビールでいいです」
詩織は腰を下ろしながら答えた。


「すみません、ビールふたつ」
善文は慣れたように、店員に声をかけた。
「はい」
どこからともなく店員の声が聞こえた。詩織は声の主を
捜そうと、座ったまま振り返ってきょろきょろした。しかし
店員がどこに居るのか、まるで分からなかった。


「もしかして、おなか空いてます?」
善文が尋ねた。
「いいえ、そんなに空いていません。いつもはこんな時間
に夕食とりませんから」
「そうですよね」
善文はきれ長ほそ面、美形公家顔で笑うと、
メニューから適当につまみを選んだ。


ビールが運ばれてきた。突然背後に人が現れたような
気がして詩織は驚いた。善文がまたふふっと笑った。
「じゃあ、二人の再会に、乾杯」
善文は椅子の角に座って身を詩織の方に向けたまま
無邪気にグラスを上げた。
「乾杯」
詩織は突然に一年半前に戻って、さっきまで善文と話して
いたような錯覚に襲われながらグラスを上げた。


この物語はフィクションです。実在の人物・団体・組織とは関係ありません