桜、早すぎる春 -7-

グラスにビールと泡は7対3。詩織はこれは譲れない。
この店の泡はやや少なめだが、合格点としよう。そんな
ことを考えながら2口目のビールを楽しもうとしたとき、
善文がふふっと笑った。詩織はグラスに2口目をつけ
ず、善文を見ながら首をかしげた。善文は詩織の方に
投げ出していた足をもう一方の足に組んで、テーブルに
頬杖をついた。コンパス、長っ!詩織は改めて思った。


「なに?」
善文が何も言わないので詩織が聞いた。
「いや。何を考えてるのかな、と思って」
善文の笑顔がやや暗めの灯りの下で優しかった。


店員がつまみのオーダーを取りに来た。善文はメニュー
を指差しながら2品を注文した。何を選んだのか、詩織
には見えなかった。しかし気にもならなかった。善文が
オーダーしているあいだ、詩織は目の前の棚を見ていた。
壁に埋まったような2段の本棚だ。棚は4つに区切って
あって、かなり大きな本が数冊ずつ納まっていた。全て
洋書だ。調理の本、絵本、絵画の本、それとよく分から
ないもの。本のないスペースには、やはり海外の物と
思われるおもちゃがデコレートされていた。


詩織は目の前にある料理の本の背を突いていた。
興味はない。でも広げてみたい気もする。そうしている
うち、善文が注文を終えて詩織の方を向いた。


「料理に興味があるんですか?」
「いいえ、ぜんぜん」
「え?ほっほっほ」
善文は楽しそうに笑った。何がそんなに可笑しいのか
詩織には全く分からない。
「可笑しいですか?」
「いや、別に。ちなみに僕は、料理上手いですよ」
笑いながら善文はビールを半分空けた。


「久しぶりですね」
ビールをテーブルに置いた善文の言葉は唐突だった。
触れてはいけない話題のような気がしていた詩織は、
その言葉があっさり善文の口から出たことに戸惑った。
「デジタル放送シンポジウムにはいつも来てたんですか?」
また急に話題が変わったような気がした。
「え?あ、いいえ、今年が初めてです」
詩織は緊張した子供のように、たどたどしく答えた。
「いやだな、佐倉さん。前の印象と全然違う」
善文はやや大きな声で笑いながら言った。
「なんていうか、もっと男らしいというか、ものおじしない
人だと思ってましたよ」
それは褒め言葉なんだろう、と瞬時に思うことにした。


「その節はお世話になりまして」
詩織は軽く髪をゆすってみせた。善文は表情も変えず
「どういたしまして」
そしてテーブルに置いたグラスを手に取ると、詩織の手
のグラスにカチンとぶつけた。そして
「あのときは、すみませんでした」
と言った。


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは関係ありません