桜、早すぎる春 -10-

うふふ。詩織はつい笑ってしまった。
「今までそんなふうに言われたことありません」
それに善文が詩織のそんなところを気に入っていたとは
想像もしなかった。詩織もビールに手を伸ばした。
「でも、そう言えば」
ビールグラスを口元まで運んでおいて、詩織は首を傾げ
て数日前のことを思い出していた。


「でも… なんですか?」
善文は足をぶらぶらさせながら詩織の言葉を待った。
「うん、BSの番組タイトルを決めるとき…」
「BS…デジタルですね?」
「当り前じゃないですか!私は日丸テレビですよ!やだ
な田辺さん、NHKぶっちゃって」
「あー、いいえ、そういうつもりじゃなかったんですが、
つい… それに僕、NHKだし。ふふっ」
詩織は頬をふくらませてみせて、それからビールをあおった。
「佐倉さん、やっぱり酒、いける口ですね」
善文が両手を揉んで嬉しそうに言った。
「好きですよ。たしなむ程度ですけど」
詩織はそう答えると、またぐいっとビールを飲みこんだ。


「そのBSの番組タイトルって?」
「ああ」
詩織は話題が戻ったことに驚いた。詩織の周囲には、
話の腰を折って自分の話題にばかり走る同僚が多い。
こんなふうに男性に問い掛けられるのは久しぶりな気が
する。これが会話のキャッチボールというものか。何だか
嬉しくて気分がのってきた。
「今度、BSで地球環境問題やるんですよ。うちの局で
こんなにでっかく取り上げるのは初めてなんです。その
タイトル…。あっ」
詩織は慌てて口をつぐんだ。しまったと思った。他社に
もらしていい企画ではなかった。まだ早すぎる。案の定、
「日丸さんが環境問題ですか?」
善文は抜かりなく突っ込んできた。
「すみません、聞かなかったことにしてください」
詩織ははしゃぎすぎたことを後悔した。


善文の表情からも笑みは消えていた。首を右に左に、
交互に倒しながら、両手を合わせて手首をぐいっと前に
突き出し
「でも、聞いちゃいました」
と言った。
「すみません、忘れてください。ほんとうに」
詩織は自分の軽率さを呪いながら、善文に身体を近付け
てビールグラスを持ったまま祈るような姿勢になった。
「僕は直接、環境問題は扱ってないですけど…でもそれって
うちとしてもかなり力入れてるプロジェクトなんですよね」


「え?」
今度は詩織が驚く番だった。「プロジェクト」なの?
「あっ」
善文も口を滑らせたことに気付き、慌てて前に突き出し
ていた両手を口に当てた。
しばらく二人はそのままのポーズで互いを見詰め合った。
にらめっこのようだった。
「ぷっ」
勝負は詩織の負けだった。


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは関係ありません