桜、早すぎる春 -23-

詩織は今日はその問いに素直に答えた。アフリカに
行ったこと。東都大学の獣医大学院に通っていること。
それはこれから日丸テレビが作ろうとしている番組に
なんの影響もないからだ。アフリカが旱魃に苦しんで
いること、北極の氷河が溶けていること。そんなことは
NHKでなくても、ほかの局がいやというほど報道して
いる。


「すみません、無神経でした」
善文は相変わらず指で顎を撫でながら言った。
今日は長い足を組んで座ってはいない。ソファーが深
すぎて、テーブルのビールをとるのにいちいち身を起こ
さなければならない。ソファーに沈むと、善文のひざ頭は
善文の顔の高さと同じところにあった。ビールを飲むのに
足が邪魔じゃありませんか?詩織はつい聞きたくなって
しまう。
地球温暖化というとね」
善文はまた話し始めた。
「熱帯の昆虫が日本にも入ってきて繁殖して、今は
熱帯地方でしか発病されないとされる伝染病が日本でも
発症するとか、そういうことを考えていました」
「そうですよね」
詩織もうなづいた。
利根川水系が干上がっちゃったら困るなあとか」
ビールを飲んで善文は言葉を継いだ。
「なんか、自分のことばっかり、考えてました」
詩織は黙ってうなづいた。


「日本人は知らなすぎるんです、本当の温暖化を」
詩織もビールをぐいっと飲んだ。「知らなかった」
だからといって許されるわけではないのだ。アメリカが
京都議定書に批准しなかったことが、どんなに温暖化に影響したか。
そしてゴア元副大統領の告発がなぜノーベル賞を得るに値したか。
アメリカ人は知ったのだ、自分たちが犯していることが
地球温暖化を招き、それによって生態系破壊のみならず、
自らも苦しむこととなったハリケーンを生んでいることを。
知ること。知ったこと。それがノーベル賞なのだ。


「共食いかあ」
善文は視線を上に向けて呟いた。それから
「あ、すみません、また言っちゃいました」
と詫びた。
「ビール、もっと飲んでいいですか?」
善文が空になったグラスを詩織に向けながら言った。
詩織のグラスのビールも残りわずかだ。
「私も、もっと飲んでいいですか?」
詩織も善文に尋ねた。善文はニッコリした。
「佐倉さんが酔いつぶれたら、家まで送らせてくださいね」
詩織は思わず吹き出した。
「あはは、じゃあ酔いつぶれるまで飲んでいいんですね?」
「え?」
善文がソファから立ち上がる。
「佐倉さん、そんなにいける口ですか?金、足りるかなあ?」


善文は長い足でテーブルの向こう側へ回り、カーテンを
開けてビールを2つオーダーした。
「あと焼き餃子と豆乳リゾット。いっこずつ」
後ろ手でカーテンを閉めながら、善文は真顔で言った。
「豆乳リゾット、美味いですからね」
「は、はあ…」
この店、そうとう気に入ってるんだなと詩織は思った。
そういえば、詩織にも行き着けの洋風居酒屋がある。
いつか善文を招待してあげよう。そう思うと詩織は
ウキウキした。


この物語はフィクションです。実在する人物・組織・団体とは関係ありません