桜、早すぎる春 -26-

しばらくそうしていると、善文は両腕をぐーっと上げて
体を伸ばしてから、ソファーに座り直した。
「なんか、すみません。悲しい話題になっちゃいましたね。
本当はあなたと楽しい話がしたかったのに」
詩織もはっとした。シロクマの話ときいて、熱くなりすぎた。
「もう一杯だけ、飲みませんか?」
善文はニコっと笑うとビールグラスを持って立ち上がった。
「まだ飲めるでしょ?」
ニコニコした顔のまま、反対を向いて、たおたおとした
カーテンを開けると
「ビール2つ、お願いしまーす」
無邪気な声を店に響かせた。


楽しい話。詩織はぼんやり考えた。善文とする、楽しい話。
あの白川郷の囲炉裏端でした話。何を話したんだっけ?
思い出そうにも思い出せない。ただ、思い出そうとする
だけで楽しかった気持ちが心からわいてくる。つい頬が緩む。
「あれ?佐倉さん、笑ってます?」
善文がわざと大袈裟に、笑いながら詩織の顔をのぞき
込んだ。
「え?」
詩織は思わず首をうしろに反らせたが、善文はそのまま
笑って詩織の顔を見ている。
「何を考えていたんですか?」
ニコニコしながら尋問だ。詩織はまた頬を緩ませた。
善文の顔が近くにある。切れ長の目、すっとした鼻。
囲炉裏端に戻ったような気がして、なんだか体がポカポカ
してきた。この人に見詰められると、なんだか安心するな。
詩織はふっと笑った。善文が眉をピクっと動かす。
「『かんじゃ』でした話、覚えてますか?」
善文は笑って、相変わらず詩織に顔を近づけている。
「『かんじゃ』って、白川郷で泊まった民宿ですか?」
「そうです。覚えてますか?」
詩織は楽しくなってきた。あのとき、どんな話したんだっけ?
何を話したのか思い出したい。視線を善文からはずし、
記憶からあの日を捜した。自然に両手を胸の前で組んで
いた。思い出せそうだ、一番楽しかった時間を。
「ああ、岩魚の骨酒飲んだんですよね。なつかしい。
どんな話、したんでしたっけね?」
「覚えていませんよ。もう二年も前のはなし…」
「たしか、たな」
詩織が記憶から何かを引っ張り出そうとしたその瞬間、
善文のくちびるが詩織の言葉をふさいだ。
え?
詩織は何が起きているのか、理解できなかった。


善文のやわらかいくちびるが離れても、詩織は視点を
どこに合わせるわけでもなく、腕を胸の前で組んだまま、
ぼおっとしていた。
善文はその長い足で机を回り、さっきと同じように
ソファーに腰を下ろした。
え?
あれ?今のは何だったんだろう?引き出しかけていた
思い出もまたどこかへ埋まってしまったようだ。
「あは、やだ、び、びっくりするじゃないですか」
詩織は頬が温かくなっているのが分かった。紅くなって
いるのかもしれない。両手で頬を押さえる。
「え、ダメですか?」
善文も笑いながら言った。今の善文は公家じゃない。
悪戯をしたあとの悪がきだ。


善文の方へ体を向けて、詩織はクッションをポンポンと
叩いた。
「ダメダメ。マナーがなってない」
善文は肩をすくめて笑っている。詩織はわざと怒った
ような顔をして
「本気にしちゃったらどうするんですか?」
「歓迎です」
ぷっ。詩織は噴き出した。善文も「あはは」と笑った。
カーテンが開いて、ビールグラスが二本届いた。


この物語はフィクションです。実在する人物・組織・団体とは関係ありません