モルモットな過去

日本語が亡びる!と憂いている分際で、ブログではちっとも
正しい日本語を使わない。自己矛盾。でもこのブログスタイル、
変えなくていいかな?w


今日、夕食を摂りながら小学生時代のことを思い出していたら
信じられんくらい体調が悪くなった。もうパソコン向かうのもムリ。
よほどイヤな思い出でもあるのだろうか??


私は国立大学の付属小・中学校に通っていた。母のくじ運の賜物。
ここから私のはちゃめちゃな小学校時代が始まった。


とにかく変わった子だったらしい。弟二人も同じ小学校だが
「ここなっつ3兄弟」の異名を取るほど三人三様、超個性的だったとか。
この頃の私は知能指数がめちゃくちゃ高かったのだと。34歳並。
頭の良いピークは22歳くらいだと思っていたから、通り過ぎて
老けてるじゃんかよ、と自分では思っていた。


知能指数は高いのだが、勉強はできなかった。
だから教師たちは私の才能を引き出そうと、色々やったらしいのだ。
可哀想に、きっとこれがトラウマになったんだよ(涙)>自分


教育学部の付属だから、年に一度、日曜日に大授業参観があった。
参観するのは県内の教師たち。
注目すべきテーマを抱えているクラスは、体育館で授業をする。
体育館にほぼ教室と同サイズのエリアを切って、そこに自分たちの
机と椅子を運び、授業。もちろん壁などなく、自分たちの周囲を
何百という教師が立ち見である。発言にはマイクを使う。


小学校2年のとき、体育館授業に当たった。たしか教科は理科?
このために、本番までに3回、練習授業を体育館でやった。
しかし初回、私は風邪で休んでしまった。だから2回目からの
授業では一人置いてきぼりにされたような気がして、結局当日まで
挙手すらしなかった。
あとで聞いたが、実はこの授業、私が主役だったらしい。
主役が発言なしなので、無難な授業参観となった。


体育館授業に当たるクラスは滅多にない。かなり名誉?にも関わらず
私たちのクラスは4年生のときにも体育館授業だった。
この歳になってくると、自分たちがモルモットであることに気付く。
気付いた上で「仕方ないよね」とモルモットらしく、モルモットで在った。


4年生の時の授業内容は覚えていない。しかし強烈だったのが。
その晩、よっぱらった担任から電話があった。私のおかげで授業は
大成功であったと。なんじゃ、この酔っ払いは?? 追記あり
母が代わって応対したが、どうやらこの授業の主役も私だったらしい。
担任の狙い通りに私が発言したらしく、その後の研究会は大盛況で
担任は褒められまくったようだ。


さて。滅多にない体育館授業。恐ろしいことに6年生のときにも我が
クラスは候補に上がった。しかしさすがに3回はまずかろう、という
ことで「大会議室授業」(笑)


このときは完全に自分が主役であることを悟っていた。なぜなら。
それまで授業は4人グループが順々に「議長・書記・板書・オブザーバー」を
やっていたのだが、年に一度のビックイベントが近付いて来てから
この役割は私たちのグループで固定された。しかも!
「書記」役を外し残りの3人が係をやり、私一人が授業受け側。
おかしいでしょ、それ?!


当日は定員を越す200人くらいの教師が殺到。廊下にはみ出す教師も居て、
この辺りでは児童の声は聞こえなかったそうだ。
授業内容について、私は私のポリシーがあって曲げる気などさらさら無かった
のだが、いい加減、この露骨なここなっつ吊るし上げに嫌気がさして、
大イベント、開始でいきなり自分の意見を翻した。


案の定、授業は大失敗だったそうである。
母はそのときの担任に「ここなっつの発言が2人分早かった。それで授業の
流れがまったく変わって、研究会は大波乱。あと2人、待って欲しかった」
と言われたそうだ。いったいどんな結末を描いていたんだ??
モルモットにも感情というものがあってね、大事に育てているつもりでも
逆襲するんですー


というわけで、私のモルモット体験は同じ大学の付属中学3年生まで続く。


母は「他の小学校じゃなくて良かった」と言う。モルモットとしても、今では
そう思う。この「特別扱い」を受けなかったら、ただの不良だっただろう。


ところで倒れそうなほど体調が悪化したのに、こーんな長文を書けたのは
父が電話で、実験に使うラット・マウス・モルモットの違いを、とても丁寧に
分かり易く説明してくれたから。 
へぇ!目的によっては同じ「ねずみ」でも使い分けるんだね!!
もう忘れたけど(爆)


 追記 母からメールで補足
酔っ払った田村先生(仮)が「嫁にしたいくらいだ」と言ったらここなっつは
いいよ、私が大人になったときおじいさんじゃ無かったらね、
みたいなこと言ったんだよね。
 ↑
いかにも小学生らしい、かわいい返答である。うんうん。(激嘘)