「ここなっつの世界」

いえ!「ソフィーの世界」をパクったわけじゃないですよ!
私、哲学、ちゃんと勉強したわけじゃないですから!


最近、なんとなく分かってきたんです。「ここなっつの世界」
みたいなものは、誰にでもある物じゃないらしい、ということが。
最初、羽生名人が「狂気の世界」と呼んでいるのがそうかと思った
のですが、それとは違う「集中しすぎる世界」なんです。


羽生名人の集中する世界が「将棋」だとすると、私が集中するのは
「文章を書く世界」です。
羽生名人は著書『決断力』の中で

深い集中力は、海に深く潜るステップと同じように得られる


一気に深い集中力に到達できない
 私が深く集中するときは、スキンダイビングで海に深く潜っていく感覚と似ている。
 一気に深い集中力には到達できない。海には水圧がある。潜るときはゆっくりと、水圧に体を慣らしながら潜るように、集中力もだんだんと深めていかなければならない。そのステップを省略すると、深い集中の域に達することはできない。焦ると浅瀬でばたばたするだけで、どうもがいてもそれ以上に深く潜っていけなくなってしまう。逆に、階段をうまく踏むことができたときには、非常に深く集中できる。


羽生名人はこれよりあとで「集中力には個人差がある」とも書かれていますが、
「ここなっつの世界」はこれとは全く違います。


もともと「ここなっつの世界」は想像、空想から始まります。
頭の中に色んな風景や人物といった物理的なものが飛びこんできます。
すると次に、その風景はどう作られたのか、歴史のようなものが浮かんできます。
人物には、どういった生い立ちで、どういった経験でどういう性格になったのか?
そういうものが集まって、そこからストーリーが作られます。


もしアスリートに「光る道」があるのだとしたら、このストーリーはそれです。
勝手に自分で光って構成されていきます。私はそれをただじっと見ている感覚です。
ストーリーが構成されると、そこで私はそれを「文字」や「文章」で表そうとします。
今みたストーリーをより忠実に、効果的に伝えるためには、どういう順番で
どういう言葉を使えば表現できるのか、それはあれこれ考えます。書いてみて
ダメだと思ったら書き直す。この作業も「ここなっつの世界」で行われます。

これ以上集中すると「もう元に戻れなくなってしまうのでは」と、ゾッとするような恐怖感に襲われることもある。


私が羽生名人の呼ぶ「狂気の世界」とはなんぞや?と思ったのは、この部分でした。
ゾッとしたかどうかは覚えていませんが、子供のころ、「ここなっつの世界」に
居た私は、よく「もう元には戻れなくなるかも」と思っていました。
「あっち」の世界の住人になってしまうのです。というより、
「この扉を閉めたら、もう元の世界には戻れない」という感覚です。私はもう
「あっち」に居たのかもしれません。


小学校のころはよく「ここなっつの世界」に居ました。そういう世界に入り込み易い
授業が多かったせいもあります。「樹と対話しろ」とかいって、ずっと樹の下に居る
授業、なんてものがありましたから。


2時間目と3時間目のあいだ、休憩時間が20分ありました。これは他の10分休憩とは違い、
遊んでいい時間でした。


私はこのとき友達と、学校の一番端にある大きな草の中に入っていました。
草じゃなくて木かな? 外は枝と葉が地面まで垂れ下がって根本は見えないのですが、
その枝を払って中に入ると、そこはすっぽり空間が空いていました。
子供には広すぎる空間でした。
それはとても神秘的な家屋でした。


たぶんチャイムが鳴ったのでしょう、友人は気付いたら居なくなっていました。
私はずっとその根本に座って、この空間の中で起こる様々なことに想いを巡らせて
いました。葉擦れの音は聞こえます。風が通るのも感じます。土の冷たさも分かります。
でも、時間の流れは分かりませんでした。


よりによって「外からは見えない」草の中に入っていたので、先生方は大パニックだった
ようです。学校中、くまなく探したつもりでしょうが、見付からなかった。
私がようやく「ここなっつの世界」から出て教室に戻ったときは、給食の時間になって
ました。ただし、給食どころじゃなかったようですがw


今思えば、一緒に入った友人が一言「あそこに入った」と言えば、あんな騒ぎには
ならなかったんですよ。笑


小学生のころは頻繁に「ここなっつの世界」に入り浸っていたのですが、どうやら
それは他人が居ないとヤバイらしい、と気付いてから、意識して入るようになりました。
ここが、羽生名人の「水圧に体を慣らしながら潜るように」とは決定的に違っています。


「ここなっつの世界」にはスイッチがあります。入るためのスイッチです。
「さぁて…いっちょ行ってくっか」と覚悟を決めてスイッチを入れると、私の場合は
すっと「あっち」へ行ってしまいます。ほとんど瞬間的に。
ただ感覚的に「海に深く潜る」のは感じます。それは水底に沈むように、すーっと
落ちていくのです。


「ここなっつの世界」に入ると、その集中力はハンパではありません。
ストーリーを構成する早さや文字の選択、どれも脳のあちこちが閃光を発して
いるのではないかと思うほどです。
「ここなっつの世界」から出てきて完成品を見たとき、自分でも驚くほどですし、
時には自分で選んだその言葉に記憶がないことすらあります。
あはw 本当にヤバい世界なんですよw


大人になってからは「ここなっつの世界」に入りたいとは思いません。いえ、正確には
入りたいのですが、入るとヤバイのが分かっているので入れないのです。
入るのにスイッチはありますが、出るためのスイッチはありません


だから入らなきゃいけないとき、例えばその日中にある商品のパンフレットを完成
させないといけない、という場合などは「ここなっつの世界」に入らないと無理だったり
します。そういうときは、必ず「出てこれる環境に自分が居るか」確認してから入ります。
例えば終電では必ず帰る同僚が居て、ちゃんと私に声をかけてくれる、とか。
つまり無理やり外部から物理的刺激を加えてもらって、引っぱり出してもらうのです。


また小説を書くときなどで、今日は「ここなっつの世界」に入ろうと思ったら
それは自分の部屋、天変地異以外に私に危害を加えるものが無い環境、そして
「ここなっつの世界」から出てきたときに充分な飲料や食糧、睡眠場所が確保されていること、
そういうことを確認してからじゃないと入りません。
いつ出て来るのか、来れるのか、自分でも分からないからです。


こういう「集中」は誰でもしているものだと思っていました。
なのに羽生名人の

これ以上集中すると「もう元に戻れなくなってしまうのでは」

という文章をどこかで見たとき、これは特異なことなのかも?と思ったのです。


『決断力』を読んで、羽生名人の恐れる「狂気の世界」は、私が思っている世界と
違うものだということが分かりました。恐らくその世界は、物理的に外から
引っ張られても出て来られない世界でしょう。


将棋を始めてみて、将棋は「世界に入り易い」という印象を持ちました。
実際の駒は動いてないのに、頭の中で動いているからでしょうか?
3手先を読んでいるときの頭の感覚は「ここなっつの世界」に似ています。
ええ、私の場合は3手先まで読めれば十分です。というか、読めてません!
でも「詰め将棋」より「次の一手問題」が好きなのは、関係ないとは思えないです。


誰か、私の脳波も調べてくれませんか?