宗教について考える、この秋。


あ。なにも私は、この歳で初めて宗教に目覚めたとかではなく。
私に宗教勧誘してくる人たちが、この秋に多いということなのです。


社会的に、いわゆる「邪教」のレッテルを貼られながらも、
それでも勢力を拡大しつつある集団というのは、幾つもあります。
接近してくる団体は、邪教とは言われないまでも
煙たがられている存在です。


宗教を抜きにすれば、その人たちには悪い印象はないです。
その宗教を否定するつもりもありません。
ただ、その人たちが「語る」教えに疑問を持つのです。


例えば、「神」…ここでいう神はキリストなどの一神教でも
日本神道の神でもありません。 人智を超える何者か、のような意味。


「神」はいつも信者を見ていて、困っているときは助けてくれる。
そのためには、いつも神に祈りを捧げ、心を繋げておく必要がある。


聞いていて、(ああ、それはキリスト教でいう聖霊とかのこと?)
と思ったわけです。


すると彼女いわく、
「こんなふうに見守る存在があるのは、この宗教だけです」


ん? なにを根拠に「この宗教だけ」と言う?


キリスト教聖霊とはどう違うのか、彼女の説明を必死に聞きましたが、
人間の内にあるのか、外にあるのかが違うだけで役割は似ています。
神の名前が違うといえばそれまでですが。


彼女ははっきり、キリスト教には神と交信する手段は無い、と
言い切ったのでした。


「他の宗教にはない」と断言するのは早計でしょう。
少なくとも、キリスト教を知らない立場で。



強欲な生物である人間は、自分の生に価値を求めたがります。
だから苦しみ悩んでいると、誰かに救って欲しい、存在を知って欲しい。
まー、現実には、なかなか知ってもらえず、一人で悪戦苦闘するわけです。


だから「誰かが見てる」「今すぐでなくても、救ってくれる」と
言われれば、それを信じたくなります。


その救い主がキリストだろうと、釈迦だろうと、日頃の行いだろうと
座敷童であろうと。
それは信じる人の自由であって、ようはそれで「頑張れる」ことが
宗教・救い であると私は思うのです。
(指を100本集めたら救われる… なんて交換条件みたいな教えは
認めませんけれど)


だから彼女の「他の宗教にはない」という否定行為が、
彼女の宗教を貶める、そう思いました。
だから邪教扱いを受けるのだと。


彼女の口から出る言葉が、無責任に聞こえます。
「シリアでは沢山人が死んでいる。今こそ人間は平等意識を持つべき」


シリアなんて持ち出して…
彼の地の差別問題を憂うのは、物理的にも文化的にも経済的にも
遠い私たちには、簡単なことです。憂うだけなら。


本当に自分自身の意識を変えたいと思うなら、憂うのは
半島との戦後処理問題、拉致被害問題、基地問題
軍事を離れれば東北復興、熊本援助。
他の宗教の存在を理解しようとしない、不勉強な態度。


たぶん、問題があるとすれば、彼女たちの「語り」です。
彼女たちの、独り善がりな解釈です。


「いつも見ている」そんな歌詞のある曲を口ずさむだけで
そこそこ立ち直る私には、さしずめその曲が「救い」
というところでしょうか。